御本尊雑考

親父の介護を通して、死とは?人間とは?そして今まで信仰してきた御本尊とは?仏とは?
つらつらと思いを殴り書きしますw-w-w



日蓮は何を持って本尊とすべきか?御書に照らして考えて見ます。
まずは「本尊問答抄」の

法華経の題目を以て本尊とすべし・・・此れは法華経の教主を本尊とす法華経の正意にはあらず、上に挙ぐる所の本尊は釈迦多宝十方の諸仏の御本尊法華経の行者の正意なり・・・釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり、末代今の日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とするなり」と有るように、法華経の題目、南無妙法蓮華経を本尊にするべきと言ってます。

次に、「唱法華題目抄」の
「問うて云く法華経を信ぜん人は本尊並に常の所行は何にてか候べき、答えて云く第一に本尊は法華経八巻一巻一品或は題目を書いて本尊と定む可しと法師品並に神力品に見えたり」と有るように、南無妙法蓮華経の題目を書いて本尊にする事と言ってます。

又「如来滅後五五百歳始観心本尊抄 」に
「此の本門の肝心南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶文殊薬王等にも之を付属し給わず何に況や其の已外をや但地涌千界を召して八品を説いて之を付属し給う、其の本尊の為体本師の娑婆の上に宝塔空に居し塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏・釈尊の脇士上行等の四菩薩..「中略」是くの如き本尊は在世五十余年に之れ無し八年の間にも但八品に限る、正像二千年の間は小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士と為し権大乗並に涅槃・法華経の迹門等の釈尊文殊普賢等を以て脇士と為す此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず、末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか」と書かれているように、末法に入って出現する御本尊「大曼陀羅」の事と読み取れます。

又「報恩抄」に
「問うて云く天台伝教の弘通し給わざる正法ありや、答えて云く有り求めて云く何物ぞや、答えて云く三あり、末法のために仏留め置き給う迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・天台・伝教等の弘通せさせ給はざる正法なり、求めて云く其の形貌如何、答えて云く一には日本・乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし」と有り、日蓮が図現した「御本尊」と読み取れます。

たしかにこの四抄の中には、解釈が難しく、分からない所も有りますが、「観心本尊抄の漢文の読み方とか、本尊問答抄の木絵開眼とか、報恩抄の教主釈尊を本尊とするの文のあとに続く釈迦多宝の脇士とか、、、、」解釈はいろいろ有りますが、すべて日蓮が図現した御本尊の事と解釈出来ます。
それでは、この本門の本尊に図現された中央の南無妙法蓮華経についての疑問。そもそもこの曼陀羅本尊は法本尊のみなのか?人本尊も兼ねているのか?考えます。

南無妙法蓮華経は題目で有り、法華経に帰命しますと言う意味だから「法」で有り中央南無妙法蓮華経だから法本尊と捉えるべきだ。そもそも曼陀羅は「法」を体現するため画かれているので、「人」では無い。いやいや曼陀羅は具足円、すべてが含まれているから人でも有り、法でも有るとか、、、

大聖人はどう思っていたのでしょうか?
「釈迦仏と法華経の文字とはかはれども心は一つなり、然れば法華経の文字を拝見せさせ給うは生身の釈迦如来にあひ進らせたりとおぼしめすべし、」(四条金吾殿御返事)

「仏の御意あらはれて法華の文字となれり、文字変じて又仏の御意となる、されば法華経をよませ給はむ人は文字と思食事なかれすなわち仏の御意なり、」

(木絵二像開眼之事)

「今の法華経の文字は皆生身の仏なり」

(法蓮抄)

「妙の文字は三十二相八十種好円備せさせ給う釈迦如来にておはしますを我等が眼つたなくして文字とはみまいらせ候なり」

「妙心尼御前御返事」


「此の本門の肝心、南無妙法蓮華経の五字に於いては」

観心本尊抄

「寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字」

観心本尊抄


寿量品の肝心である妙法蓮華経の五字は、「仏の御意」と云うことになります。
また
釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う、」

観心本尊抄


どうやら法華経の題目と釈迦は一体で有り、法華経の文字「法華経の題目」は「人」と「法」が具わると解釈しても良いと思われます。

このように御書を拝しいくと、御本尊の「南無妙法蓮華経」は、本門久遠実成の釈尊の事で有り、大聖人の事では無いようです!そしてこの曼陀羅は、人法が備わった本尊だと解釈出来ます。